オピニオン

【考察】炎上について思うこと(ネットで誹謗中傷する人たち)編

炎上で世間を騒がす人がいる。

何気ない一言が、世間をざわつかせてたちまち燃え上がっていき、気がつけば渦中の人になっている。知らないうちに吊るし上げられて、外からいろんなことを言われてしまう。

 

炎上について疑問に思うのは、匿名の人たちの謎の正義感である。

自分は100%間違っていないと言わんばかりに、正論を振りかざす。

言っていることは至極真っ当で間違っていないけれど、だからと言って外から何を言ってもいいのか、ということを疑問に感じたりする。

正しいとか間違っている以前の問題で、言葉は凶器なのだから、のべつ幕なしに浴びせかけてはいけない。

仲の良い友達や関係性がしっかりしている人に対しては、アホとか死ねとかいくら言っても問題はないけれど、匿名で見知らぬ他人に言うのであれば、特に気を遣わなければならない。

そういう配慮ができないから、人を傷つけたり追い込んだりしてしまい、結果、炎上に発展してしまうのだと思う。

 

民主主義の世の中だから、さまざまな意見があってしかるべきである。

意見をしてはいけない、ということではない。

ほかの国を見渡せば、それがいかに例外的なことかよく分かる。

中国はネットの規制により、党が国民を監視している。

政府に都合の悪いことを書き込んだりすれば、身の危険が及ぶこともある。

自由な言論空間が整っていなかったりするのだ。

 

日本ではネットの言論空間がきちんと担保されている。

さまざまな意見をぶつけ合い、建設的な議論が生まれる土壌が整っている。

議論が深まることにより互いの理解が得られるのであれば、非常に有益なことである。SNSの発展によってわたしたちはより緊密なコミュニケーションが得られるようになった。

ところが情報発信のハードルが下がったことは、決して良い面ばかりではない。

匿名であるのをいいことに、言いたいことを言うだけの憂さ晴らしや、発散の場として使われることが非常に多い。

自分に都合のよい相手を見つけ出してターゲットを定め、ここぞとばかりに叩いていく。

攻撃を受ける側からしてみれば、一方的で反論の余地すら与えられない状況である。

不満があるのなら、面と向かって言えば良いと思うけれど、おそらくそれができないから、ネットで陰口を叩いていると思われる。

当の本人は、自分がどれほどのことをしているのか自覚がない。

 

ネットの誹謗中傷で、大人数が一斉に検挙された例として有名なのは、スマイリーキクチさんの事件だろう。

「女子高生コンクリート詰め殺人事件」というまったく身に覚えのないことで実行犯に仕立てられ、濡れ衣を着せられてしまう。

どんなに弁明しても信じてもらえない。

ウワサがウワサを呼び、何が真実なのかが分からなくなる。

ウソが本当になっていく様子は、考えただけでゾッする。

スマイリーキクチさんは、無実であることを証明するために、およそ10年もの歳月を費やすのだから、炎上を完全に消すことは簡単なことではない。

もはや完全に常軌を逸している。

 

やがて中傷犯たちが一斉検挙されて、多くの事実が明らかになったけれど、書類送検や取り調べなどさまざまなことの末に、結局は不起訴処分となった。

炎上に加担していた者が、何もお咎め無しで終わらせていいはずがない。

もしこれがまかり通ってしまうのであれば、誰かが悪意を持ってハメようとして、実際に成立してしまうのではないか?

非常に残念なことだけど、それで幕引きとなったのだから仕方がない。

残念だけどわたしたちは、そんな殺伐とした世界に身を置いているのだと感じたりする。

 

話は変わるが昔、周防監督の痴漢冤罪をテーマにした『それでも僕はやっていない』という映画があった。

痴漢の罪に問われたら90%以上勝ち目はない、といった話である。

07年の映画なので、かれこれ10年以上も前の話である。

 

痴漢は決して許されるものではない。

女性専用車両なんてものがあるのは、とても恥ずかしいことである。

人口が過度に東京一極集中する世の中なので、当然ヘンな人が紛れている。

わたしも東京に住んでいたときに、駅員につまみ出されている人を見たことがある。

わたしが使っていたのは、埼京線という痴漢が多発する路線だった。

地方に住んでいれば、絶対にあり得ないことだけど、東京の満員電車はそれが可能になるほどすさまじいものがある。

痴漢被害を受けた女性のことを思うと本当に気の毒である。

 

しかし一方で、女性が被害を訴えたら、どんなに無実を訴えても有罪になってしまうという恐ろしい面があることを映画は伝えている。

女性の方が立場が弱いとか、声を上げるのは勇気がいるとか、女性が言っているのだから間違いない、といったフィルターがかかってしまい、どんなに無実を訴えても聞き入れることはない。

女性が間違っている可能性や、意図的にハメようとしているといった可能性が疑われることは、微塵もない。

痴漢冤罪で必ず議論の的になるのは、疑われるようなことをする方が悪い、というロジックである。

人相とか振る舞いとか、自分ではどうしようもないことを外見で判断され、怪しいとか気持ち悪いとか、いろいろとラベル付けされてしまう。

疑われる側が悪い、みたいな議論が持ち出されると、もはや男性は反論することができない。

痴漢については、泥沼の裁判になる前にどこかで折り合いをつけて和解した方が良い気がする。

裁判になってしまうと、例えやってなくても有罪になってしまう可能性が大いにある。

とても恐ろしいことだと思う。

 

言葉は凶器である。簡単に人を傷つけることもできるし、使い方によっては人を救うこともできる。

今回あげた例は、犯罪にまで及ぶほどの悪質なもので、ここまでひどいものはそれほど多くはない。

しかし、誹謗中傷や炎上が過度に突き進んだときに、こういった事例が起こることもあったりするのだ。

言葉を生業にしている者は、特に気をつけなければならない。

言葉は使い方次第で、毒にも薬にもなる。

 

願わくば、わたしは良い方向に言葉を使いたいと思う。